あの日

春になる前に思い出すことがある。
外の均等な光とたくさんの層に分かれた空気が混ざり合ったり反射したりして、気持ち良さそうだから薄着で外に出てみる。息を吸い込むときにざざざと鳥肌が立つような昼間、体の芯は冷たくてまだまだ心から笑えない。そういう時はすぐに部屋に戻って、体温が移ってぬるい布団に潜り込んで窓からぽつりぽつりと入ってくる暖色と白い布が交互に戯れるのを、ぼんやり見つめるうちに日が暮れるから、やっと起きだして、鏡の前に行く。すると自分の顔がそこにあって、目の下のクマを手でなぞるのだ。頬の下のそばかすやほくろの数を数える。キリがないからやめる。夕方、温度が下がって、冷たい空気が足首のあたりで停滞すると、空は紫色とか水色とか、オレンジ色とかが混ざって、綿状の雲を誰かが糸にしようとして手でちぎって伸ばしたみたいに斑に広がる。たまに月が白くなって出てくるから、ああ、これから夜になるのだなあと分かる。空の向こうには限りなく色が広がっていると思うと、近くに行きたくなって、そういう空を見ると、私は歯ブラシを持って、家の玄関を出て、小道を挟んだすぐのとこにあるスーパーマーケットの屋上の階段をのぼる。歯磨きをするのである。
その大きな屋上は閉鎖されているのだが、非常階段の鍵は柵の隙間から手を簡単に入れられるからすぐに開く。サンダルを引っ掛けて、スウェットで、起き抜けのどうでもいい格好なのだが、歯磨き粉を付けた歯ブラシと、コップを持って、一段一段上っていく。屋上は駐車場にするために作られたもので、灰色のすべすべのコンクリートと、黄色い線で区画されている。とにかくだだっぴろいし、誰もいないし車もない。空間が空間として抜けている感じ。空の途中にいるのに、ずっと広い道が遠くまで繋がっているようにも見える。少しだけ緑があるからかもしれない。風も、そこに何もないのが当然のように隙間無く通り抜けるのが気持ちいい。私もまるで家のベランダのような顔をして座り込む。頭をからっぽにして歯磨きをするにはうってつけの場所だった。
コンクリートの上に腰をおろし、足を投げ出す。左手で上半身を固定して、歯磨きをする。左手はそのうちしびれてきてしまうのでたまに休憩する。口の中で歯磨き粉と唾液がぱんぱんにふくれあがるからコップに出す。奥歯を磨いて、手を止めることもあるし、前歯を磨いて疲れることもある。歯ブラシを口に突っ込んだまま、寝たらどうなるかと思って、寸前まで寝転がりそうになるのだが、そういえば外だったと思ってまた姿勢を戻しつつ、なんだか突然、途方もなくバカらしくなって、立ち上がると、口の中のもの全部飲みこんじゃいそうになる。スウェットについたホコリをぱんぱんと落としてから、屋上から見える、自分が住んでいる家を眺めた。かわいい色をしている。私は、何がしたいんだろうと思った。家とか買えるようになるんだろうか。今度はゴザを持って、月見でもすればいいやと、狭い非常階段を降りながら、私は歯磨きの続きをした。

割れちゃった真っ白と、ジュース

ベッドの下の、絨毯とベッドの隙間の奥底には数匹のキノコがいて、夜になるとにょきにょき顔を出してくる。それが本当に怖い。闇の中で赤緑の光が無数に点滅したらどうしよう。こっちを見ている。だからベッドから手や足をはみ出さないように寝なくてならないと小さい頃は考えていた。足などをベッドから出して寝てしまった日には、にょろにょろと足に巻き付いて取り返しのつかないことになる。そんなことは絶対にあってはならないと、たまに夜中、ベッドから身を乗り出して、絨毯とベッドの下の、隙間の、奥底を監視した。気づくと朝そのままの体勢で目覚めて、青ざめることもあった。知らないうちに、首に巻き付かれて弄ばれていたらと、小さい胸はひっかかるように痛んだ。
小さい頃は、日曜日は誰よりも早く起きてしまった。何時に起きたのかもわからないのだけど、家族3人で住んでいる小さな家は暗く、私は自分ひとりに与えられた部屋のベッドから毛布と共に這い出してリビングに行く。絨毯だったから足音は立たない。途中、父さんと母さんが寝ている寝室のドアを、音を立てないようにノブを回して、中をのぞいてみるんだけど、すぐ横に壁があるから見えなくて、2種類の寝息が聞こえた。たまに足が見えることもあったが、二人の顔を見ようと中まで入る事はなかった。ただ確認するのがおもしろかった。私は毛布にくるまるのが好きで、それは多分、お姫様が好きだったからだろう。そしてやっぱり何かに包まっているのはあたたかくて心地よい。肌に触れる毛布はいつだって柔らかいんだ。

それで私はテレビの前に座ると、棚の中からビデオを出して、不思議の国に迷い込んだ女の子のお話や、人魚姫の女の子のお話、魔女の女の子の話、動物達の国のお話や、二人の女の子の姉妹の冒険の話の映画を小さな音量で観ていた。

たまに夜、目が覚めてしまう事もあった。寝付けないので、音を立てないようにドアをあけて、絨毯をそっと、リビングの手前までいく。絨毯の途中から斜めに明かりが入ってきている。父さんと母さんが音楽を聴きながら二人でソファに座ってしゃべっている気配があるから、安心してそこに寝転がった。でもやっぱり二人の前に現れて寝れないと目をこすって、ソファに座ることはしなかった。ある日夜に目が覚めると、家中が静かで、小さいなりに、家に人がいないことを察知したので、急いで走ってリビングまで行く。どこを探しても父さんも母さんもいなかった。私は家の中で一人で父さんと母さんをたくさん呼んだが静けさだけが反応した。
私は二人を探しにいかなくてはならないと、外に飛び出してしまった。車の修理か何かをしているお兄さんにおでかけかい?と笑われたが、私は半泣きでうろうろした。家の車も見当たらない。何回も駐車場をうろうろしていると、2階の窓から声が聞こえて、首を上へ向けると、涙が鼻のほうまで逆流してきた。
「何してるの?」という声と、「大丈夫?」という二種類の声が聞こえた。私は暗い窓から聞こえる2つの声に向かって父さんと母さんがいないの、と言った。
「きっとでかけてるだけだよ」「そうだよ、そこにいるとあぶないよ」私はまた出てくる涙を押さえきれずに、空気を何度も飲み込んで、また上を向いた。
「うちにおいで」「心配しないで、こっちおいで」
少したって、二人の女の子がお揃いの、小さな花がたくさんプリントされたパジャマを着て迎えにきてくれた。髪の毛の色が栗色で、背がちょっと大きい女の子の方は肩までくるくるの髪を伸ばしていた。二人と手をつないだ。同じ色の絨毯のある家に連れてかれて、そこのお父さんに抱きかかえられた。そこのお母さんは、ジュースをくれて「うちで待ちなさい」と頭を撫でた。「小さい子が駐車場にいるって娘に聞いてびっくりしたのよ」

よく覚えてないのだが、簡単に言うと、あの家はどこかの映画で見た事があるみたいだったな、と今では思う。ジュースの色は透明なピンクとオレンジが混ざったような感じで、女の子達の部屋の窓の前にはベッドがあって、赤い、小さい花柄のカーテンがあった。窓の外には外灯があるから、ぼやけて明るい。まるで映画のワンシーンみたいだ。そこから小さい子がうろうろしてるのを見つけた彼女達はきっとくすくす笑いながら、お互い見つめ合って、それからうなずいて、足をばたばたさせてから、私に声をかけたに違いない。

そのあと、迎えにやってきた父さんと母さんの顔が怒っていて、私は小さいながら「なんでかな」と思った。

13歳くらいの少女

映画ではよく、13歳くらいの少女が、いい年をした大人に対してアドバイスをするというものがあってそれは大抵の場合、というか完全に的を得ているのでものすごくびっくりする。ある映画では恋愛に悩む兄に対して、「魚(女)は海(世界)に死ぬほど泳いでるわよ」などと言ってみたり、不運な結婚をしそうな姉に「後悔してほしくないだけ」と無邪気な顔をして言うのである。ほかには「アイデアなんて思いつくだけなら簡単よ」「結局見た目だってこと」「食べ方が汚い男とはつき合わない方がいいわよ」とか挙げたらキリがないのでやめておく。それで先日私はついに出会ってしまった。私のことを見上げ、サラサラの黒髪をポニーテールにして、眼鏡をかけたあどけない顔の女の子に。少女って、よーく顔を見ると、目がつり上がっていて、完成していないところが好きだ。二重とか一重とか、そういうのはあるんだけど、目と皮膚の境が定まってないのが少女なんだ。あとやっぱり顔も目も鼻も口も小さい。
少女は私も見るなり、「そんな魂の抜けた顔していると、こっちのテンションがすごい下がるんだけど?」と横やりをいれてきた。場所は大通り沿いのDVDレンタル屋さんの店内で、私はその時、持っていたのが、「マイ・ブルーベリー・ナイツ」だったため、少女が言う事には「へえ、結構参ってんの?」ということだった。
ああ、そうかもしれないなあ…と私は言ったのだが、言葉に詰って、なんだか気まずい空気を醸し出してしまったのだが、少女が「まあさ、あんたもうちょっと現実をちゃんと評価したほうがいいよ」と言ったのでびっくりしてしまった。
「確かにさ、あんたが今苦しいのは、何かにもがいているからで、多分うまくいかないことや、漠然とした不安があるんだろうし、周りがどうこう言ったとしてあんた自身が納得してなきゃそりゃしょうがないよね満足してないんだから。でもあんたが満足してようがしてなかろうが、そこじゃないわけあんたの精神が健康でいられるかってのは。周りの人の言葉にも耳をちゃんと傾けてる?大体あんたの現実認識がマイナスすぎるの。別にそれは悪いことじゃないし重要な素養ではる。でも、これ以上、あんたは自分を信じられずに、間違った見解だけ持ち続けると、そうだな、実家に帰って引きこもるか、死んじゃうかどっちかしかないよ、それにあんたが一番大丈夫だよって言ってもらいたい人には一生言ってもらえないんだから早々にあきらめな。別の人がたくさん言ってくれてるでしょ大丈夫だって。大丈夫て魔法の言葉で、なぜだかあんたは安心するみたいだけど、言葉って言っときゃいいんだけど、世の中には言えない人だっているんだからさ」
13歳くらいの少女ってみんなもしかしたら死神なのではないかと思っている。天使の顔をした死神で、そういう気の利いたことを言う少女達は一定数現実世界に送り込まれる。誰よりもすべてお見通しで、何かに捕らわれてぐだぐだ迷っている大人たちを、品定めする。しかし少女たち自身は決断を下さない。まだ死神見習いだからだ。だから少しだけ猶予が与えられる。それで変化があればリストから外されるし、ダメならそのままアウトという仕組みだ。
「今日はダーティー・ハリーにしときなよ」と少女にDVDを渡されて、そうそう、あの最後、ダーティー・ハリーが悪党を追いつめて、お前にはまだ運があるかみたいなこと聞くんだよね、悪党が引き金引いたら、拳銃からは「カチッ」ていう音しかしない。それで、その悪党は川までふっとばされる。

色をつける

朝が来る。誰にでも朝はやってくる。
私はいつからか朝が来る事を、当たり前のこととして受け止められなくなってしまった。それはいつからなのだろう。朝ふと目覚める時のことなんて全く覚えてない。光が差し込まない部屋にいるからだろうか。何度もぼやけた視界と暗闇が交差する。左目があいて、右目の瞼は閉じていて、左目から見える、睫毛の一本一本が、右目からうっすらと見える肌色の吸い付くような感覚が、朝ではない。どうしても朝は来る。朝が来ることは毎日の変わらない出来事などではなく、朝なんて来ない場合があるのだ、そう思っていたが、どうしようもなく朝はやってきた。朝がやってくるときは音で分かる。耳の中が少し濡れているんだ。だから音が新鮮に入ってくる。寝ている間にも絶え間なく音を聞いているのに、朝起きて外に出て、耳の中にすーっと入ってくる空気を捉える鼓膜の水分が、なんだかさわやかなのだ。透明感がある。でもその音は決まって私を苛立たせる。朝が来てしまったことを嘆いてしまう。
朝は私にとって別れだ。いろいろなものと別れて、一人になる。新鮮な音と、空虚感で満たされる。朝を受け入れないと、動けない。動けないと、朝は過ぎていって、そのまま夜になった。昼はなかったかのように損なわれる。
彼はよく天井を見ていた。僕は天井を見上げるっていう大事な作業をしている、とこっそり教えてれた。「天井ばっかり見ていては、ベッドにそのまま、体が沈んでいって、そのまま皮膚が溶けちゃって、くっつかないですか?」と冗談まじりに私は聞いたことがある。でも彼はまじめな面持ちでこう話だした。
ううん、天井を見上げる作業は、物事を客観視することなんだ。体は持っていかれない、体はここにないようなものだ。僕は、天井を見ながら、木目を追って、自分の意識の流れを感じている。そしていろいろな事を考える、小さい頃の自分、親のこと、親友のこと、恋人のこと、友達のこと、上の階に住んでいる人のこと、昨日行ったスーパーマーケットや食べたもの、気になった情景、気になった人と人との交わり、会話、運命や、時間軸、偶然のこと、頭に浮かび上がる記憶すべてと対峙するんだ。すると、自分の怒りや不安や不満の元が分かる。それをもっと俯瞰して、僕自身の生活や、誰かとのやりとり、夜歩いた商店街、ぜんぶ映画みたいに、頭の中で再生して天井に投影するんだ。そうすると、自分の気持ちはもちろん、そのときの風の感じ、足音、一緒にいた人の表情や見えなかった言葉の裏の感情をなぞることができる。そこで僕は気づくんだ。あの人はあのときすごく笑ってた、僕はそのとき些細なことで不安になってしまって見えてなかったんだ。僕は思う。きっと僕の前でしかあんな無邪気な笑い方しないんだろうな、って。それは僕の体の中に、僕自身を救世主として何かを埋めていくような行為だとも言える。でもそう思えたりする、それが正しいんだと思うんだ。自分を満足させられるのは自分しかいない。他の誰でもなく、自分が世界をつまらないって思ったら、自分のせいなんだって、誰かが言ってた。そういうことなんだよな。僕は天井を見上げている、辛いときはなおさらずっと見てしまうけど、それも仕方がないことなんだよ。たまに手を延ばしてみるんだ。でも寝ていると天井には手は届かない。君はまだまだ子供だけど、くさらないでがんばるんだよ。
それから4年くらい経った。彼が今どこで何をしているのかは知らない。そして彼も、私がどこで何をしているのか知らない。
私は毎日天井を見つめている。3ヶ月も4ヶ月も天井を見つめている。天井を見つめると、感情がわき上がってくるのだけど、それらは少しだけ波うつだけで静まっていく。また天井に向かって記憶をさかのぼってみる。私は反省しているのか、悲観しているのか、身体を充電しているのか、何かを亡くしたのか、空腹になることを恐れているのか、何もしたくないのか、考えれば考えるほど、頭がからっぽになって、からっぽの「ぽ」の音に、生きていることが集約されそうな気分になる。私は本当は何もしたくないし、誰とも会いたくないし、家の外に出たくないんだ。でも、外に出たいし、人に会いたいし、作りたい。おいしいスープだって煮込みたいし、たっぷりのお湯に浸かって身体をあたためて、ベッドに入りたい。そんなことを思って、また、天井を見ている。息を吐く。息を吸う。その繰り返し。それでも私は、もう何ヶ月も天井を見たまま、薄暗い部屋の中で何もできないでいたのだが、記憶をめくる途中で、大好きなあの人の、笑った顔を思い出せて、ああ、私大丈夫なんだ、と思った。

朝方、振っていた雨は止んで、空を厚い雲が覆っている。午後になったら、太陽が雲を溶かして顔を出すだろう。そして私は午後の空に傾注し、静けさを凝視しよう。その先にある生きるという透明な文字に、色を付けなくてはならない。

こんにちは御月様(ダイジェスト版)

それで私はドアを開けた。
両腕を回すと空気と振動してぶんぶん音がするから、いつもよりもたくさん回した。このまま肩の関節が外れても仕方ないと思ったが、全然外れなかった。体がなんだかじれったくて、どうしたらいいか分からない。靴をはききれないまま、足をとんとん、と道にはずませてからそのままの勢いで、大通りまで突っ走ってから、一度深呼吸して、そのまま道を直進していった。案の定、黄色いトラックに轢かれそうになった。トラックに乗っていたスキンヘッドの兄ちゃんの口から飛び散る唾がスローモーションで見えて、なにこれ超ウケると思った。ドア越しに身を乗り出して、「ふざけんなァアアアあぶねえぞおお!」と言われるのも全部スローモーションだった。ですよね、すみませんと思ってとりあえず即座に土下座をして「あなたの心の平安を乱してすみませんでした」と丁重に謝った。アスファルトと膝が触れた。アスファルトはその時ちょっと湿っていた。触ってみたら柔らかいものだ。膝がへこんだみたいに柔らかい。あれそんなことより今何時なんだろう。きっと今だから柔らかいんだと思うんだ。ああ今何時でもいいや。今何時だなんてこと気にする事無いんだった。
私は来た道を戻り、家へと急いだ。ドアが開けっ放しだったからだ。急いでいたからか、走ってるつもりがスキップになってしまって、ドアの前の段差で足がもつれて交差した。私は玄関の床のタイルのつなぎ目に鼻をぶつけた。つなぎ目は灰色だったのだが、つなぎ目に焦点をあてると、タイルがつなぎ目なのかつなぎ目がタイルなのかわからなくなる。でも私がぶつかってもつなぎ目は壊れないんだな。だから私はそれを壊す必要がないんだと思った。つなぎ目は壊れない。そんな簡単なことってあるんだろうか、つなぎ目は壊れる必要がない!私は仰向けになった。空はまだ暗い。自動的に外灯が灯る。ドアからはみ出す私の足を強い光で照らした。
月はどこだろう。すぐに隠れてしまう。少し赤みがかった月がまた顔を出す。たまに月はとっても大きくて、触れるのではないかと思う。月が赤い時が好きだ。模様がはっきりするんだ。相変わらず空は暗いから、月に照らされた雲は灰色で、月の前にやってくると、煙のようにまとわりついて、温度を持っているようだった。私は目を疑った。空から七福神が乗っているような船みたいなものが見える。なんだか陳腐な作りのような気がするのはぼやけているからだろうか。いろんな光でまばゆく光っている。そこだけ黄金で、月からまっすぐに地上へ降りてきそうだった。誰かがいるような気がして右に首を向けると、頭に日本髪のカツラをつけた白いお化けがにやにやしてこっちをみているのでじっと見つめかえす。ちゃんと着物を纏っている。金色の刺繍までしてある。でもこの白いお化け、漫画みたいなんだよ大丈夫かな、ウケる。ぐーぐーって音。傍らには口からよだれを垂らしたワニが同じくこっちを見ていた。大きくて黒いワニだ。私は思った。怖いんだけど別にこっち来てもいいよ。それにね、私はそのワニを満腹にさせる方法を知っているんだ。
私は顔をむずむずさせて鼻がくっついていることを確認した。鼻はくっついていたけど、鼻の穴がじわじわ熱くなった。鼻血だ。大きくて黒いワニは血の匂いにすかさず気づいて、もぞもぞとしっぽを左右に動かし始めた。砂埃がバサバサ立ちこめて、上に浮き上がると消えた。夜の砂埃って意外に綺麗だ。日本髪のカツラのお化けはまだにやにやしている。
これは試されている、と私は気づいた。
受け入れる用意があるというのを本当がどうかもっともねちっこく陰湿な形で試している。ワニは私によだれを垂らしながらどんどん近づいてきた。それで私は、サンドイッチを作らなければ、レタスとハムと卵の他に、サツマイモがはさんであるサンドイッチを作らなければ、食べられてしまうことを知っていたから、急ぎたいのだけど、実際黒くて大きなワニがもう私の足の横あたりまで来ているからどうしようもない。「足よ動け!」って思っても脳がフリーズしてるから、足が動かないのに、自動機能みたいに足がぶるぶる震えているのだからすごい。ものすごい面白い。そのとき履いていたスカートは、水色と薄紫色を混ぜたような色だったけど、怖くてどんどん赤色に見えてきた。足はぶるぶる震え続けている。
こんなときに限って、私はとてもいやらしい気持ちになった。ワニの舌が足を張ってきて、爪の先をすーっとふとももまで滑らせる。私は全身から分泌されるものを全く信用できずに、ワニの目に憎悪を焼き付けるんだ。ワニの爪が私の顔の頬までやってくると私はそれをしゃぶってよだれだらけにしてやる。それできっとワニの皮膚っていうのはごわごわしていてぼこぼこしてるのかもしれないけど、お腹のあたりとかちゃんと触ったら、フリースみたいにすべすべしているかもしれない。私も楽しくなってきて、指でワニの目をつぶしたり、お腹を撫でてあげて食いちぎったりしてあげたらいいんじゃんと思って、ワニの尻尾とかをぐにゃぐにゃにしてやって…と思いとどまって、割と大丈夫だ!ってか大丈夫じゃない!と我に返った。無理無理無理。手の指が全部あることを必死で確認した。
まずワニっていうのは、あたたかい上半身を狙って食べて、下半身は泥沼の中に隠して保存するんだ。まだ時間はある。私は玄関のタイルの上に横たわっている自分の上半身を後ろに進ませて、起き上がり、すばやくドアを閉めた。鍵をかける音がやけに小刻みに響いた。心臓の音がうるさかった。

外部に一部分を委託した散文

今もまだまだブチブチと切れている。まだまだ足りない。
「 」ってよく使われる言葉で、いろんな人が意識をする。いろいろな場面でよく耳にする。でも「  」それ自体の構造が、実はよくわからないでいる。あたかも有機的にそうなっているように人々が思うのはなぜなんだろう。同じ線上にあることのあの無意味さになぜ人は一喜一憂したりするのだろう。いまいち理解できないでいる。「 」こと自体への疑問だ。どこの世界でも「 」が重要視され、どうやって「」されていくか、「 」いくかということに、重きが置かれているようで、そこらへんが掴めない。「 」の軸はどこにあるんだろう?そこにスタイルとか理論はあるのだろうか。それに「 」は階層を意識しない。「 」の線は、世界のあらゆるレイヤーも越えていくように映るが、線は本当に切れてないんだろうか。越えていったとしても、「 」はディテールにまで到達するのだろうか。「 」自体がそれを生み出すとばかりにそれらのイメージには終わりがない。これじゃまるで「メタボリズム」だ。「 」が「 」を生むという幻想。「 」があたかも増殖していく、ということ。そこに弱さしか私は見る事ができない。果たして「 」の先には何があるんだろう?
人と「 」ということがどれだけ、その人生に影響を与えるかということが忘れられているように思う。そこでは人からの評価だけに意識が集中して、「なぜそれをやるのか」という本質が抜け落ちる。
もはや、有機的ではない人やモノとの「つながり」を拒否したところからしか「 」は生まれないのではないか。そこで私は「ポップ」という概念を導入するのだが、ポップであるということは、オシャレだとかハッピーだとかそういうことではない。ここで定義されるポップさとは連続性から露にされる、現実から地続きになっているはずの感情のゆらぎだ。ポップであることは多分、意識の向こう側にあって、そして一番表現したいものなのだが、もっともっと考えなくてはならない。

寸止めについての考察(増補版)

幾分、抽象的な話になってしまうのだが、デジャブという現象があったとして、その脳内映像、あるいは既視感、そういったものに捕らわれる瞬間が私には少なからずある。それは決まって、視線を一点に集中させるばかりか、足が停まってしまうようなやっかいなもので、これはどこかで見たことがあるような気がする、とか、どこか奥の方で聞こえてる気がする音、確かに疑ったらきりがないのだが、だからこそ、その映像や音にまで行き着くか行き着かないかのところで、何かを寸止めにする必要があるのだ、と思っている。
たとえばデジャブを寸止めするということは、既視感によって生まれる空白に、同じくらいの血液量で発想が覆される可能性があるということを示唆する。しかし、同じ既視感でも、それが遠い彼方の記憶や、忘れていたもの、原点となるもの、言い過ぎれば原風景をあからさまに意識したときなどは、空白というよりはむしろ、何かしら生まれ出る予兆が感情の流れに含まれているのだ。
そこに新しさを諦めることなく、発見するというのは、なんとも感動的ではないだろうか。 物事を新しいか新しくないかというところで量るというのは確かに大切な発想法ではあるが、そもそも新しさとは例えば170年前からそこにあるものだというのが私の持論だ。新しさは、歴史が古かろうと浅かろうと、突然変異的に出てくるものではなく、引用や変換を通じて、更新されて眼前に現れるような種類のものなのではないかと思っている。「新しいか」という問いが、頭の中で整理されて腑が落ちる時は自分自身だけだが、実際に、その発想がいわゆる「新しいもの」として世に生み出される瞬間には、必ず誰かと一緒であり、もともと発想したものよりもよりよい状態で具現化できるのだな、というのが最近学んだ事だ。

まったく脱線するが、私の音楽の恩師が、世の中には3通りの評価が存在していることを覚えておきなさいと言っていた。「すごく好きだし気持ちもいい」と「不愉快で嫌いだ」と「何も思わず関心もない」ということだから自分が世に発表したものの評価は気にしないことだ、ということだった。事実これらは忘れがちなので折に触れて思い出す必要が有る。

頭で考えることというのは、もちろん実体がないものではあるが、実際に形にする前までの輪郭線がぼやけた余韻のような曖昧さだけで行ったり来たりするというのは、単に私にとっての空白を増やして行くだけのことは分かっている。ここでいう空白というのは、ある全く異なった感情が同時に存在することで損なわれる具体性のことであるが(損なわれるから、かならずしもそれは悪ではない)平たく言えば想像を越える事のない自分や自分を含む現象のことなんだろう。そうすると、頭の使ってない部分まで細やかに神経を行き届かせる執念深さの必要性がむしろ問題になってくるのだが、ここは、自分の思考回路の癖を見直すことにしたい。ものを作るということに重きを置きすぎている私にとって、考えに捕らわれないで全力で頭を使い体を使うというのがいちばんかっこいい。感情の所在は認めるが、感情自体は寸止めにしてひたすらやる。イメージに手が追いつかないようでは、多分、手を動かすことが想像を越えることの障害になりかねない。手を動かすことで想像を越えたい。あらゆる事象に対して、反射的に環境を生み出していく力が欲しい。そんなことを思う。
やれロジック、やれ思想的背景、それらを全部まっさらにしたところから、わき上がる感情を押さえたり、疑う前にとりあえず寸止めして体は前を行く。もはやつんのめるくらいがいいのかもしれない。そこに期待している。ただ、わき上がる感情が出てくるまでを大切にして、イメージに普遍性を持たせるための時間もあるだろう。誰も分からないところで、技術におごることなく、パターン化することなく、感情と一緒に空白を空白としてではなく転がしていくしかない。

感情にまかせて後先考えないという、ある種の愛すべき行動力とは別次元で、ものと対峙するとき、直面するときの姿勢としての寸止め、あるいは反射、それが一番かっこいいし、そうありたいような気配だけは察知した。