色をつける

朝が来る。誰にでも朝はやってくる。
私はいつからか朝が来る事を、当たり前のこととして受け止められなくなってしまった。それはいつからなのだろう。朝ふと目覚める時のことなんて全く覚えてない。光が差し込まない部屋にいるからだろうか。何度もぼやけた視界と暗闇が交差する。左目があいて、右目の瞼は閉じていて、左目から見える、睫毛の一本一本が、右目からうっすらと見える肌色の吸い付くような感覚が、朝ではない。どうしても朝は来る。朝が来ることは毎日の変わらない出来事などではなく、朝なんて来ない場合があるのだ、そう思っていたが、どうしようもなく朝はやってきた。朝がやってくるときは音で分かる。耳の中が少し濡れているんだ。だから音が新鮮に入ってくる。寝ている間にも絶え間なく音を聞いているのに、朝起きて外に出て、耳の中にすーっと入ってくる空気を捉える鼓膜の水分が、なんだかさわやかなのだ。透明感がある。でもその音は決まって私を苛立たせる。朝が来てしまったことを嘆いてしまう。
朝は私にとって別れだ。いろいろなものと別れて、一人になる。新鮮な音と、空虚感で満たされる。朝を受け入れないと、動けない。動けないと、朝は過ぎていって、そのまま夜になった。昼はなかったかのように損なわれる。
彼はよく天井を見ていた。僕は天井を見上げるっていう大事な作業をしている、とこっそり教えてれた。「天井ばっかり見ていては、ベッドにそのまま、体が沈んでいって、そのまま皮膚が溶けちゃって、くっつかないですか?」と冗談まじりに私は聞いたことがある。でも彼はまじめな面持ちでこう話だした。
ううん、天井を見上げる作業は、物事を客観視することなんだ。体は持っていかれない、体はここにないようなものだ。僕は、天井を見ながら、木目を追って、自分の意識の流れを感じている。そしていろいろな事を考える、小さい頃の自分、親のこと、親友のこと、恋人のこと、友達のこと、上の階に住んでいる人のこと、昨日行ったスーパーマーケットや食べたもの、気になった情景、気になった人と人との交わり、会話、運命や、時間軸、偶然のこと、頭に浮かび上がる記憶すべてと対峙するんだ。すると、自分の怒りや不安や不満の元が分かる。それをもっと俯瞰して、僕自身の生活や、誰かとのやりとり、夜歩いた商店街、ぜんぶ映画みたいに、頭の中で再生して天井に投影するんだ。そうすると、自分の気持ちはもちろん、そのときの風の感じ、足音、一緒にいた人の表情や見えなかった言葉の裏の感情をなぞることができる。そこで僕は気づくんだ。あの人はあのときすごく笑ってた、僕はそのとき些細なことで不安になってしまって見えてなかったんだ。僕は思う。きっと僕の前でしかあんな無邪気な笑い方しないんだろうな、って。それは僕の体の中に、僕自身を救世主として何かを埋めていくような行為だとも言える。でもそう思えたりする、それが正しいんだと思うんだ。自分を満足させられるのは自分しかいない。他の誰でもなく、自分が世界をつまらないって思ったら、自分のせいなんだって、誰かが言ってた。そういうことなんだよな。僕は天井を見上げている、辛いときはなおさらずっと見てしまうけど、それも仕方がないことなんだよ。たまに手を延ばしてみるんだ。でも寝ていると天井には手は届かない。君はまだまだ子供だけど、くさらないでがんばるんだよ。
それから4年くらい経った。彼が今どこで何をしているのかは知らない。そして彼も、私がどこで何をしているのか知らない。
私は毎日天井を見つめている。3ヶ月も4ヶ月も天井を見つめている。天井を見つめると、感情がわき上がってくるのだけど、それらは少しだけ波うつだけで静まっていく。また天井に向かって記憶をさかのぼってみる。私は反省しているのか、悲観しているのか、身体を充電しているのか、何かを亡くしたのか、空腹になることを恐れているのか、何もしたくないのか、考えれば考えるほど、頭がからっぽになって、からっぽの「ぽ」の音に、生きていることが集約されそうな気分になる。私は本当は何もしたくないし、誰とも会いたくないし、家の外に出たくないんだ。でも、外に出たいし、人に会いたいし、作りたい。おいしいスープだって煮込みたいし、たっぷりのお湯に浸かって身体をあたためて、ベッドに入りたい。そんなことを思って、また、天井を見ている。息を吐く。息を吸う。その繰り返し。それでも私は、もう何ヶ月も天井を見たまま、薄暗い部屋の中で何もできないでいたのだが、記憶をめくる途中で、大好きなあの人の、笑った顔を思い出せて、ああ、私大丈夫なんだ、と思った。

朝方、振っていた雨は止んで、空を厚い雲が覆っている。午後になったら、太陽が雲を溶かして顔を出すだろう。そして私は午後の空に傾注し、静けさを凝視しよう。その先にある生きるという透明な文字に、色を付けなくてはならない。