ほんとうの嘘

私はとある島で生まれた。東京からは片道で一日分くらい離れている、小さな島で、四方八方、見渡す限り海に囲まれているような所だ。島のまんなからへんには大きな夢の山もある。その名も大山。本当に緑ばっかり。生まれた家の前にある小さな門は、ところどころ錆てはいるけれど、緑色の葉っぱで生い茂っていて、桃色や乳白色のお花がそこここに咲いている。とてもいいにおいがする。果物を食べたあと、口びるの周りが甘く香るような、そんなにおい。少しばかり石畳を歩く、ぎしぎしとかすかな音を立てたその先に、玄関がある。心なしか、日中、光が淡く白っぽく見えてくるんだ。どこか懐かしい気分にさせる写真のような感じと言えばいいのかな。ここは現実なんだろうか。そう思うほど、私の頭は勝手にノスタルジーのスイッチを押して、目の中に入ってくる光に全身を預けていく。身体の中が安堵でだんだん満たされる。引っ張られていた何かが、すーっと、消える。そして玄関の引き戸に手をかけるのだ。がらがらがら。ただいまー。
今年の夏は暑かったね。毎日毎日、ペットボトルの飲み物とアイスクリームを買っていた気がするよ。でも夏が終わっちゃったと思うと寂しいんだ。屋内できんきんに冷えた身体と一緒に、自分の体温よりも高い温度の世界に出る時に、感じるうだるような倦怠がすごく懐かしい。ああ暑いなあ。もうしょうがないなあ。わかったわかった。あちいよお前。みたいな。夏が終わって寂しいなんてはじめて。どうしてだろうなあ。それくらい暑かったってことかな。
それで、私は生まれ育った島で3日間を過ごす。風が通るから意外に涼しい。

がんばったら、最後まで諦めなかったら、なんとかなるんだって思うと同じくらい悲しい気持ちになるんだ。わけもわからず涙もでてくる。好きだという気持ちだけで、何も食べなくていいくらいになりたいんだよ。同じくらい、もうどうでもいいから、何も食べないでいいやとなげやりになる。私は思う。でもでもでも…あんなに遠いところで、ひとりでやってるんだから、って。私は自分が大丈夫なように調整する。調整っていやだな。バランスをとる。バランスか、それもよくわからない。そうやって、私は、私自身の所在のなさを確認する。作業に近い。淡々と現実を見つめて、そうだよなって、思うだけ。これが東京にいるとできないのです。不思議なことに。だって選択肢がありすぎるでしょう。

細分化された自分の嗜好に埋没していくのは実はとても簡単で、何かを多数で共有することのほうがむずかしい。それはきっとどんどん発展して、思いやりとか善意とか愛とか倫理の話になっていくのだろうかとも思ったが、別に関係ない気もするし、あながち間違いでもないかもしれない。共有することの気持ち悪さを抱えているであろう私たちが、実はどこかで何も共有できてないことに不安を覚えている。身につまされる矛盾に耐えられるように、視覚にはフィルターがついて、見たくないものは見ない。

島に帰ると、通りですれ違う人とひとことふたこと、話すあの感じが好きだ。あら随分お姉さんになったわねえ、いやあ26ですからねははは、あの子に赤ちゃんが生まれたのよ顔見に行ってやって、わあいきますいきます、あなたはどうなのそろそろ考えなさいよ、まあぼちぼち考えてますからははは、お仕事がんばってね、ありがとうございます、親御さんに心配かけちゃだめよ、はいほんとにそう思いますおやこうこうしたいです、云々。
生活とかくらしとか人生とかそういうものを共有している感じが、東京にはないんだと、ふと思った。しかし、それは私が見ないようにしていたことなんだろうか。東京で、腹を割って、生活の話ができる友達の顔を思い浮かべる。こういう話が出来るひとと出来ないひとがいる。大事なことを、散歩しながらでも小さな声でぼそぼそと言い合える人たちの声は心地いいんだ。すぐに会いたくなる。ああ、しょうがないなあ、もうちょっとやってみるか、面白い事できるように、と手のひらの線を見ながら歩いた。