眠れない夜は羊なんか数えない

正直言って何も書けなくなってしまったのです。書きたい欲求だけがからまわりして、何も言葉が出てこない。それは我慢していたからというのもあるし、言葉を紡ぎ出そうとする行為が自意識から遠く離れていったというのもある。尊厳をどこかに置いてきて、人を傷つけるだけの壊れた、あるいは治りかけの、器官に成りかわったとも言える。言葉によって救われる瞬間、言葉自体に宿る誠実さを、私は捨て去ってしまった気がしてずっと怖かったのだ。
毎日毎日、感情に負けた。生きていくには断片が必要だったのに。ほんの少しの欠片でいいから、それに色をつけたかった、そのための救いとしての言葉だった。どんなに小さな部屋でも、場所でもいいのだ、好きなように泳げれば。部屋全体の、あの低い位置に漂ってる温度。そっと息をしながら、寝ているのか起きているのか、わからないような、そんな空気が、安心で満たされるまで、私は自分の中身がぐちゃぐちゃになっていくのがわかったし、いちいち臓器が引っかかった。血だらけだ。しかしその血は外にはでない。なぜなら中身が血で染まっても、誰にも分かるはずないのだから。
言葉なんて、と忘れたふりをしていたら、つなぎ目にはどんどん亀裂が走っていく。ああ、どんどん進むのだなと思う。たまに忘れる。何があったかも覚えていない。壊れていくところは波のように繰り返して目の前に現れる、もう取り返しはつかないのだけれど。見ていることしか私にはできなかった。
そりゃ爪も割れる。指で触ると当たり前に痛い。

話してよ、最悪なキミのこと

スクリーンから光が消えて、辺りが数秒間だけまっくらになる。固まった背中を前の方にそらして、腕と曲がった指を、口をつぐみながらうんと上まで伸ばすのがたまらなく好きだ。身体の中からみしみしって聞こえたら、最後にコキって小さく鳴る。息がもれるのを、細心の注意を払ってそおっと飲み込む。まだ声を出しちゃいけない。そんなもったいないことできない。だんだん明るくなった空間に目が慣れてくると、私はずっと自分の足下を見てしまうんだ。なぜなら私は映画を見るときは決まって靴を脱ぐから。靴を脱いで、膝を抱える。あるときは銃弾の音に肩がびくっとなる。つま先がタイツに食い込んで、気持ち悪い。あるときは、唇と唇が触れ合って、まとう音に胸が苦しくなる。荒野の中に吹きあれる紙切れのひとつひとつが、耳の穴をふさいで、仰々しく小刻みに震えるような気配を感じる。
人がアスファルトの上を歩く時の、靴と地面がこすれる音。靴と地面の隙間に吹いている重苦しさ。着ているズボンやシャツの衣と衣がこすれる音。ポケットから携帯電話を出して、ナイフみたいに急に開く時の音。もう短くなったタバコから漂うもやもやした煙が鼻の先をかすめていく時に、あなたの指を思い出したりね。
それでね、私は夜の街を、姿勢を正して歩いてみたんだ。耳を研ぎすましていると、言葉が意味を失う。意味なんてあるのだろうか。話し声よりも風の音の方がよく聞こえる。私の意思で、私の右足で蹴った地面のくもった音が、なんだか、とても、心地よくて私はひたすら前を見て歩いた。

みんなしあわせになりたいだけなんだって。そんなことわかってるんだけどさ。でも私はやっぱり、誰かに助けを求めている。いつもいつも、毎朝、毎晩、薄い膜がかかったような世界に投げ出されてる感じだ。お風呂に入るのだって勇気がいる。洗濯機のスイッチを押すのだってつらい。爪を切ったときに決まって悪夢を思い出す。顔のほくろが増えている。外に出たら、外に出たら、助けてって言わなきゃ。でもその膜は、とっても薄いから、私がはっと息をしただけで破れては、私の顔を被おって、窒息させようとする。

百年後の

百年後のこと?
だって百年後は私じゃないでしょう。ううん、あなたには会いたいのだけど。そうね、百年後にも実体があれば、両手を広げてあなたを抱きしめるよ。というかさ、私やあなたが作ったものが、百年後、誰かの目に触れるかもしれないと思うとちょっとうれしいね。百年後の誰かに共感されたら、私たちは時空を越えられる。百年後、違う形で、たとえば途方もない宇宙みたいな網の中の、ある階層の中に私たち一緒に保存されるかしら?そうしたらずっと一緒でいられるね。

寝ている間に窓を開けていた事も忘れている。体温が上がってどんどん苦しくなって、身体に痛みのようなかゆみのような、そういうものが走ってゆくんだ。目を開けたいのに、瞼をぎゅっとしてくっつけている。痛みをやり過ごすわけではなく、ただ過ぎるのを待つ為に。喉の奥が乾いて、何度も唾を飲み込んでいたら、首のあたりがじれったくなって、まるで水中から光に向かって上がっていった瞬間みたいに、目を思いっきり見開いた。
さっき見た映像が反芻される。隣に寝ている人の、かわいらしく仕立てられたシャツの袖口からまっくろな数珠のような実体のないものが、わしゃわしゃ出てくる。あれこれ何かの動物かな。最初はお互い笑いころげる。ちょっとちょっと! あははは。かわいい。かわいい。なんだろう、このわしゃわしゃして丸っころいやつ? ねえなんだろうね。
でもね私はどんどん怖くなるんだ。多分1分もしないうちに。笑うように筋肉を使ってたのが全部溶けてほっぺたから唇がずるずるお腹の方まで垂れてきている気分になる。あれ? 自分のことを忘れてしまったらどうしよう、頭の中に身体ごと吸い込まれたらどうしよう。袖口から絶え間なく出続ける黒い物体が悪魔みたいに見える。どこか知らないところで大きくなった、誰かの悪意が口の中に入ってくる気がする。ああ、やめて!と私は精一杯叫ぶ。お願いだから、あなたの手首を、私に切らせないで! あの人は穏やかに笑っている。とても華奢な指を顔の方に持ってきて前髪を少し横にやる。そして私の伸びた前髪に触れてから、少し右に流して、そのまま頬にするーっと手の甲を滑らせて、また笑うんだ。首をかしげると、顔の丸さが際立って素敵だった。
私は何にも知らない。あなたのことも百年後のことも、何にも知らない。そのとき必要とされている実感というもののために、恐ろしいほど加担するだけだ。それでも、新しさという歴史は繰り返され、私はそれを見つけるために絶え間なく動き続けなくてはいけないんだ。でもそれだと、悲しみを増大していくだけなんじゃないか?悪意を生んでいるのは他ならぬ私なのではないか?わしゃわしゃした黒い物体は全部私の内側へ消えて行った。私は思う。あなたが悪いんじゃない。
隣にはその人が寝ていて、ちいさく口を開けている。空気が身体の中に満たされようとして入ってゆく音がした。百年後、私はあなたのことを、心の底から信じているだろうか。大事なものを壊しながらちゃんと、信じているだろうか。

ほんとうの嘘

私はとある島で生まれた。東京からは片道で一日分くらい離れている、小さな島で、四方八方、見渡す限り海に囲まれているような所だ。島のまんなからへんには大きな夢の山もある。その名も大山。本当に緑ばっかり。生まれた家の前にある小さな門は、ところどころ錆てはいるけれど、緑色の葉っぱで生い茂っていて、桃色や乳白色のお花がそこここに咲いている。とてもいいにおいがする。果物を食べたあと、口びるの周りが甘く香るような、そんなにおい。少しばかり石畳を歩く、ぎしぎしとかすかな音を立てたその先に、玄関がある。心なしか、日中、光が淡く白っぽく見えてくるんだ。どこか懐かしい気分にさせる写真のような感じと言えばいいのかな。ここは現実なんだろうか。そう思うほど、私の頭は勝手にノスタルジーのスイッチを押して、目の中に入ってくる光に全身を預けていく。身体の中が安堵でだんだん満たされる。引っ張られていた何かが、すーっと、消える。そして玄関の引き戸に手をかけるのだ。がらがらがら。ただいまー。
今年の夏は暑かったね。毎日毎日、ペットボトルの飲み物とアイスクリームを買っていた気がするよ。でも夏が終わっちゃったと思うと寂しいんだ。屋内できんきんに冷えた身体と一緒に、自分の体温よりも高い温度の世界に出る時に、感じるうだるような倦怠がすごく懐かしい。ああ暑いなあ。もうしょうがないなあ。わかったわかった。あちいよお前。みたいな。夏が終わって寂しいなんてはじめて。どうしてだろうなあ。それくらい暑かったってことかな。
それで、私は生まれ育った島で3日間を過ごす。風が通るから意外に涼しい。

がんばったら、最後まで諦めなかったら、なんとかなるんだって思うと同じくらい悲しい気持ちになるんだ。わけもわからず涙もでてくる。好きだという気持ちだけで、何も食べなくていいくらいになりたいんだよ。同じくらい、もうどうでもいいから、何も食べないでいいやとなげやりになる。私は思う。でもでもでも…あんなに遠いところで、ひとりでやってるんだから、って。私は自分が大丈夫なように調整する。調整っていやだな。バランスをとる。バランスか、それもよくわからない。そうやって、私は、私自身の所在のなさを確認する。作業に近い。淡々と現実を見つめて、そうだよなって、思うだけ。これが東京にいるとできないのです。不思議なことに。だって選択肢がありすぎるでしょう。

細分化された自分の嗜好に埋没していくのは実はとても簡単で、何かを多数で共有することのほうがむずかしい。それはきっとどんどん発展して、思いやりとか善意とか愛とか倫理の話になっていくのだろうかとも思ったが、別に関係ない気もするし、あながち間違いでもないかもしれない。共有することの気持ち悪さを抱えているであろう私たちが、実はどこかで何も共有できてないことに不安を覚えている。身につまされる矛盾に耐えられるように、視覚にはフィルターがついて、見たくないものは見ない。

島に帰ると、通りですれ違う人とひとことふたこと、話すあの感じが好きだ。あら随分お姉さんになったわねえ、いやあ26ですからねははは、あの子に赤ちゃんが生まれたのよ顔見に行ってやって、わあいきますいきます、あなたはどうなのそろそろ考えなさいよ、まあぼちぼち考えてますからははは、お仕事がんばってね、ありがとうございます、親御さんに心配かけちゃだめよ、はいほんとにそう思いますおやこうこうしたいです、云々。
生活とかくらしとか人生とかそういうものを共有している感じが、東京にはないんだと、ふと思った。しかし、それは私が見ないようにしていたことなんだろうか。東京で、腹を割って、生活の話ができる友達の顔を思い浮かべる。こういう話が出来るひとと出来ないひとがいる。大事なことを、散歩しながらでも小さな声でぼそぼそと言い合える人たちの声は心地いいんだ。すぐに会いたくなる。ああ、しょうがないなあ、もうちょっとやってみるか、面白い事できるように、と手のひらの線を見ながら歩いた。

上機嫌で旅がしたい

失われているのは、なんなのだろうかということを考える。
しあわせな空間に、たいせつな人の心に、何かが満たされていくことに、神経が極まっていくのがわかる。感情があふれだすから眉間や目尻にしわが刻み込まれる。奇跡とかいう言葉を連ねる。それでも気づかない間に、ほんのわずか消え去るものがあって、空白感というか結局のところ喪失感なんだ。恐怖かもしれないし不安かもしれないし、もしかしたら面影かもしれないし優しさかもしれない。よくも悪くも身体の中で共存していたすべてのもの、世界と自分との境界線、そういった全部から部品がひとつ消えたような気がする。でもそれは嬉しい事なはずで、喜怒哀楽がいっぺんにやってくることは多分に稀なのだ。果たして、理性には想像力があるのだろうか。物語を紡ぐのは、私の中の、あなたの中の一体なんなんだろうか。

「日常を断片化していっても、自分の身体と感情が八つ切りにされていっては元も子もないでしょう。
だから、私はそれらが、風で飛ばされないように、透明なグルーであなたのかわりにくっつけていってあげようと思います。」

良く眠れるおまじないを手のひらにのせながら、私より背の低いあの子は、上目遣いになった目にたくさんの嬉しさを込めて、そう言った。

みんなそれぞれ何かを失うのが怖い。でも、そんなこと考える時間など、ない。

もう知識はいらない

フクオカにいる仲の良い友達がいて、もうかれこれ、えっとどれくらいだっけと思って数えてみたら、7、8年の付き合いだった。8年か。すごいな。子供だったころから、考えてみたらやっぱりちょっとずつ大人になっていて、あれ、7年前っていたらそうか、そんなになるか、と思った。最近出会うひとたちもみんな昔から知っているような気がして、不思議だ。いちいち感動してしまって、体力が持たない。あの人やあの子の過去をも、なんだか愛おしく感じる。知らなくても、近い。遠くても同じ。一時間や二時間でも、あの人といるとすごく長く感じるような、そんな日々を過ごしている。みんな違うところから来ているのに、どっかで出会って、時間を共有しているんだからすごい、そういうことに今更ながら感動するというか、それと、違うところに行ってがんばっている友達たちを思って、ああ、がんばれ、応援してる、と思う。だからあれ、まだこれしかいっしょにいないの?とびっくりする時もあるし、もうこんなにいっしょにいるのかと思う事もあって。ああ、あの時は、あのときの日差しも、あのときの夜の霧も、あのときの電話も、あの時の駅のホコリっぽい匂いも、あの時の気持ちも、あの時の部屋の電気の色も、あの時諦めたことも、ほんとは全部覚えてるんだけど、内緒にしていこうと思ってる、ひゃーでもどうしようかな。ちょっとづつがんばろうねそれだけだよね。ありがとう。
フクオカの友達から連絡があり、昨日は、私たちが大好きな映画をほぼ同じ時刻で観ていたことが判明した。シンクロニシティ!とにかく今日はいい日だった。一年ぶりに銭湯にいったし、おいしいものを食べて、缶コーヒーを飲んだ。いろいろあるけどありがたい。生きていてよかったとひさしぶりに思った。大好きなひとたちが健康でさえいればいい。みんなしあわせになってほしい、ああただそれだけを祈っている。はなればなれになってしまった人たち全員に会いに行きたい気分だ。一人一人の目を見つめて、ほっぺたを触りながら、「元気だった?ありがとう。愛してる。」と言っておでことおでこを合わせる旅に出るんだ。もう一生会えない人もいるが、私はその人たちを寝る前にたまに思い出してみることを、きっと、ずっと続けてしまうんだろうな。

ポップではないものとしての悪意

「悪意の連鎖について考えれば考えるほど分からなくなるのは当たり前で、悪意っていうのはすぐに伝染する。だから、悪意は、誰かある一人のやつが、何も言わないで、何もしないで、何も考えないで、全部飲み込むっていう覚悟を持って静かに、受け止めなきゃ終わらないんだ」と言いながら、もうひとりの僕が足を組み替える。靴の裏にはたくさんのしあわせがついているんだ。見落としてしまったものたち、踏みにじってしまっている善意。寂しい顔や小さな声にも気づかないフリをして、どんどん僕は僕自身の悪意に苛まれる。頭の中がとっちらかる。悪意が皮膚を貫通して入ってくる。悪意によって身体が腐ってくる。ああ、かみさま、悪意を止めるにはどうしたらいいんですかと、首を仰いで電線の黒い影を見る。たまにバチバチっていう音が聞こえる。毎日毎日肩をすくめている僕自身が、もし悪意の固まりだったら、と思って真っ正面に視線を戻した。そんなはずはないんだけど、思っている傍から、人ごみに対して舌打ちしている自分が情けなくなる。行く手が少しだけ塞がれて、足のリズムがくずれる。たまに勢いよく身体がぶつかって、無防備な僕の上半身は回転する。だってあんな密度で人がいるんだから仕方ないのに。
複雑だと思い込んでいる悪意の根源に理性はない。それらを解読していけば、ただただシンプルなものに突き当たる。だからこそ人はそのシンプルさの強度をひどく恥ずかしいものだとして、欲や諦めと共に悪意を増長させる。もっとも、直感的な悪意は、純粋な悪意のままでいられるはずであり、純粋な悪意は多分にすぐに収まる。なぜなら誤差だからだ。しかし、純粋な悪意などというのは、私たちの身体を通した瞬間にあとかたもなくなって、悪意に変貌する。いろいろなものを纏ってしまった悪意は、「あとには引けない状態」に僕らを追い込んで、追いこんで、追い込む。悪意を正当化する。正当化された悪意は、自ずと正義という大義名分をも飲み込んで、僕たちに襲いかかってくる。
悪意ってそもそも、まず自分の不甲斐なさだけに直面したときに起こりやすいのだからやっかいなのだ。悪意は、自分と僕との間にある、苛立とコンプレックスなのかもしれない。だからこそ、悪意は悪意を呼び、暴力は止まらない。暴力を止めるにはどうしたらいいんだろう?僕は靴下を脱いだ。五本の指が縮こまってくっついている。おやゆびを動かすだけでも全身が痛い。僕は思った。悪意はただ、僕がなんとなく作り出しているもので、何かのきっかけで忘れてしまって、飛んでいった悪意が、忙しい僕らにまた、いろんな人の小さな悪意を伴って、巨大化し、周りが見えなくなって、暴力を生む。僕に、悪意を止められるだけの、精神力があるんだろうか。これからどんどん大人になれば、分かるんだろうか。

誰もの心から一瞬にして悪意を消すことができる錬金術の本を図書館に探しにいこうと思っているが、毎日眠い。