こんにちは御月様(ダイジェスト版)

それで私はドアを開けた。
両腕を回すと空気と振動してぶんぶん音がするから、いつもよりもたくさん回した。このまま肩の関節が外れても仕方ないと思ったが、全然外れなかった。体がなんだかじれったくて、どうしたらいいか分からない。靴をはききれないまま、足をとんとん、と道にはずませてからそのままの勢いで、大通りまで突っ走ってから、一度深呼吸して、そのまま道を直進していった。案の定、黄色いトラックに轢かれそうになった。トラックに乗っていたスキンヘッドの兄ちゃんの口から飛び散る唾がスローモーションで見えて、なにこれ超ウケると思った。ドア越しに身を乗り出して、「ふざけんなァアアアあぶねえぞおお!」と言われるのも全部スローモーションだった。ですよね、すみませんと思ってとりあえず即座に土下座をして「あなたの心の平安を乱してすみませんでした」と丁重に謝った。アスファルトと膝が触れた。アスファルトはその時ちょっと湿っていた。触ってみたら柔らかいものだ。膝がへこんだみたいに柔らかい。あれそんなことより今何時なんだろう。きっと今だから柔らかいんだと思うんだ。ああ今何時でもいいや。今何時だなんてこと気にする事無いんだった。
私は来た道を戻り、家へと急いだ。ドアが開けっ放しだったからだ。急いでいたからか、走ってるつもりがスキップになってしまって、ドアの前の段差で足がもつれて交差した。私は玄関の床のタイルのつなぎ目に鼻をぶつけた。つなぎ目は灰色だったのだが、つなぎ目に焦点をあてると、タイルがつなぎ目なのかつなぎ目がタイルなのかわからなくなる。でも私がぶつかってもつなぎ目は壊れないんだな。だから私はそれを壊す必要がないんだと思った。つなぎ目は壊れない。そんな簡単なことってあるんだろうか、つなぎ目は壊れる必要がない!私は仰向けになった。空はまだ暗い。自動的に外灯が灯る。ドアからはみ出す私の足を強い光で照らした。
月はどこだろう。すぐに隠れてしまう。少し赤みがかった月がまた顔を出す。たまに月はとっても大きくて、触れるのではないかと思う。月が赤い時が好きだ。模様がはっきりするんだ。相変わらず空は暗いから、月に照らされた雲は灰色で、月の前にやってくると、煙のようにまとわりついて、温度を持っているようだった。私は目を疑った。空から七福神が乗っているような船みたいなものが見える。なんだか陳腐な作りのような気がするのはぼやけているからだろうか。いろんな光でまばゆく光っている。そこだけ黄金で、月からまっすぐに地上へ降りてきそうだった。誰かがいるような気がして右に首を向けると、頭に日本髪のカツラをつけた白いお化けがにやにやしてこっちをみているのでじっと見つめかえす。ちゃんと着物を纏っている。金色の刺繍までしてある。でもこの白いお化け、漫画みたいなんだよ大丈夫かな、ウケる。ぐーぐーって音。傍らには口からよだれを垂らしたワニが同じくこっちを見ていた。大きくて黒いワニだ。私は思った。怖いんだけど別にこっち来てもいいよ。それにね、私はそのワニを満腹にさせる方法を知っているんだ。
私は顔をむずむずさせて鼻がくっついていることを確認した。鼻はくっついていたけど、鼻の穴がじわじわ熱くなった。鼻血だ。大きくて黒いワニは血の匂いにすかさず気づいて、もぞもぞとしっぽを左右に動かし始めた。砂埃がバサバサ立ちこめて、上に浮き上がると消えた。夜の砂埃って意外に綺麗だ。日本髪のカツラのお化けはまだにやにやしている。
これは試されている、と私は気づいた。
受け入れる用意があるというのを本当がどうかもっともねちっこく陰湿な形で試している。ワニは私によだれを垂らしながらどんどん近づいてきた。それで私は、サンドイッチを作らなければ、レタスとハムと卵の他に、サツマイモがはさんであるサンドイッチを作らなければ、食べられてしまうことを知っていたから、急ぎたいのだけど、実際黒くて大きなワニがもう私の足の横あたりまで来ているからどうしようもない。「足よ動け!」って思っても脳がフリーズしてるから、足が動かないのに、自動機能みたいに足がぶるぶる震えているのだからすごい。ものすごい面白い。そのとき履いていたスカートは、水色と薄紫色を混ぜたような色だったけど、怖くてどんどん赤色に見えてきた。足はぶるぶる震え続けている。
こんなときに限って、私はとてもいやらしい気持ちになった。ワニの舌が足を張ってきて、爪の先をすーっとふとももまで滑らせる。私は全身から分泌されるものを全く信用できずに、ワニの目に憎悪を焼き付けるんだ。ワニの爪が私の顔の頬までやってくると私はそれをしゃぶってよだれだらけにしてやる。それできっとワニの皮膚っていうのはごわごわしていてぼこぼこしてるのかもしれないけど、お腹のあたりとかちゃんと触ったら、フリースみたいにすべすべしているかもしれない。私も楽しくなってきて、指でワニの目をつぶしたり、お腹を撫でてあげて食いちぎったりしてあげたらいいんじゃんと思って、ワニの尻尾とかをぐにゃぐにゃにしてやって…と思いとどまって、割と大丈夫だ!ってか大丈夫じゃない!と我に返った。無理無理無理。手の指が全部あることを必死で確認した。
まずワニっていうのは、あたたかい上半身を狙って食べて、下半身は泥沼の中に隠して保存するんだ。まだ時間はある。私は玄関のタイルの上に横たわっている自分の上半身を後ろに進ませて、起き上がり、すばやくドアを閉めた。鍵をかける音がやけに小刻みに響いた。心臓の音がうるさかった。