外部に一部分を委託した散文

今もまだまだブチブチと切れている。まだまだ足りない。
「 」ってよく使われる言葉で、いろんな人が意識をする。いろいろな場面でよく耳にする。でも「  」それ自体の構造が、実はよくわからないでいる。あたかも有機的にそうなっているように人々が思うのはなぜなんだろう。同じ線上にあることのあの無意味さになぜ人は一喜一憂したりするのだろう。いまいち理解できないでいる。「 」こと自体への疑問だ。どこの世界でも「 」が重要視され、どうやって「」されていくか、「 」いくかということに、重きが置かれているようで、そこらへんが掴めない。「 」の軸はどこにあるんだろう?そこにスタイルとか理論はあるのだろうか。それに「 」は階層を意識しない。「 」の線は、世界のあらゆるレイヤーも越えていくように映るが、線は本当に切れてないんだろうか。越えていったとしても、「 」はディテールにまで到達するのだろうか。「 」自体がそれを生み出すとばかりにそれらのイメージには終わりがない。これじゃまるで「メタボリズム」だ。「 」が「 」を生むという幻想。「 」があたかも増殖していく、ということ。そこに弱さしか私は見る事ができない。果たして「 」の先には何があるんだろう?
人と「 」ということがどれだけ、その人生に影響を与えるかということが忘れられているように思う。そこでは人からの評価だけに意識が集中して、「なぜそれをやるのか」という本質が抜け落ちる。
もはや、有機的ではない人やモノとの「つながり」を拒否したところからしか「 」は生まれないのではないか。そこで私は「ポップ」という概念を導入するのだが、ポップであるということは、オシャレだとかハッピーだとかそういうことではない。ここで定義されるポップさとは連続性から露にされる、現実から地続きになっているはずの感情のゆらぎだ。ポップであることは多分、意識の向こう側にあって、そして一番表現したいものなのだが、もっともっと考えなくてはならない。