寸止めについての考察(増補版)

幾分、抽象的な話になってしまうのだが、デジャブという現象があったとして、その脳内映像、あるいは既視感、そういったものに捕らわれる瞬間が私には少なからずある。それは決まって、視線を一点に集中させるばかりか、足が停まってしまうようなやっかいなもので、これはどこかで見たことがあるような気がする、とか、どこか奥の方で聞こえてる気がする音、確かに疑ったらきりがないのだが、だからこそ、その映像や音にまで行き着くか行き着かないかのところで、何かを寸止めにする必要があるのだ、と思っている。
たとえばデジャブを寸止めするということは、既視感によって生まれる空白に、同じくらいの血液量で発想が覆される可能性があるということを示唆する。しかし、同じ既視感でも、それが遠い彼方の記憶や、忘れていたもの、原点となるもの、言い過ぎれば原風景をあからさまに意識したときなどは、空白というよりはむしろ、何かしら生まれ出る予兆が感情の流れに含まれているのだ。
そこに新しさを諦めることなく、発見するというのは、なんとも感動的ではないだろうか。 物事を新しいか新しくないかというところで量るというのは確かに大切な発想法ではあるが、そもそも新しさとは例えば170年前からそこにあるものだというのが私の持論だ。新しさは、歴史が古かろうと浅かろうと、突然変異的に出てくるものではなく、引用や変換を通じて、更新されて眼前に現れるような種類のものなのではないかと思っている。「新しいか」という問いが、頭の中で整理されて腑が落ちる時は自分自身だけだが、実際に、その発想がいわゆる「新しいもの」として世に生み出される瞬間には、必ず誰かと一緒であり、もともと発想したものよりもよりよい状態で具現化できるのだな、というのが最近学んだ事だ。

まったく脱線するが、私の音楽の恩師が、世の中には3通りの評価が存在していることを覚えておきなさいと言っていた。「すごく好きだし気持ちもいい」と「不愉快で嫌いだ」と「何も思わず関心もない」ということだから自分が世に発表したものの評価は気にしないことだ、ということだった。事実これらは忘れがちなので折に触れて思い出す必要が有る。

頭で考えることというのは、もちろん実体がないものではあるが、実際に形にする前までの輪郭線がぼやけた余韻のような曖昧さだけで行ったり来たりするというのは、単に私にとっての空白を増やして行くだけのことは分かっている。ここでいう空白というのは、ある全く異なった感情が同時に存在することで損なわれる具体性のことであるが(損なわれるから、かならずしもそれは悪ではない)平たく言えば想像を越える事のない自分や自分を含む現象のことなんだろう。そうすると、頭の使ってない部分まで細やかに神経を行き届かせる執念深さの必要性がむしろ問題になってくるのだが、ここは、自分の思考回路の癖を見直すことにしたい。ものを作るということに重きを置きすぎている私にとって、考えに捕らわれないで全力で頭を使い体を使うというのがいちばんかっこいい。感情の所在は認めるが、感情自体は寸止めにしてひたすらやる。イメージに手が追いつかないようでは、多分、手を動かすことが想像を越えることの障害になりかねない。手を動かすことで想像を越えたい。あらゆる事象に対して、反射的に環境を生み出していく力が欲しい。そんなことを思う。
やれロジック、やれ思想的背景、それらを全部まっさらにしたところから、わき上がる感情を押さえたり、疑う前にとりあえず寸止めして体は前を行く。もはやつんのめるくらいがいいのかもしれない。そこに期待している。ただ、わき上がる感情が出てくるまでを大切にして、イメージに普遍性を持たせるための時間もあるだろう。誰も分からないところで、技術におごることなく、パターン化することなく、感情と一緒に空白を空白としてではなく転がしていくしかない。

感情にまかせて後先考えないという、ある種の愛すべき行動力とは別次元で、ものと対峙するとき、直面するときの姿勢としての寸止め、あるいは反射、それが一番かっこいいし、そうありたいような気配だけは察知した。