共鳴せえへんか

僕と共鳴せえへんか。
織田作之助の「夫婦善哉」、どうしょうもないけど惹かれてしまう柳吉のくらくらする口説き文句だ。私はこの小説を読んでから、実はオオサカに憧れていた。
オダサクの小説で読む「粋(すい)」そのものである強烈な色彩、いちいち風でからからと回る風車が並んでいる夜の街、テキ屋が腹から声を出すときに飛び散る熱、赤色40号あるいは102号の杏飴やすももから滴り落ちる粘り気のある透明、私は十銭(テンセン)で天ぷらを食べる、退廃している埃、おネエちゃんが唇を切らしてこっち視ながら交差する足の媚態、そこをお母さんと手をつないで私は連れられている、足早に駆け抜けながら、ふとお母さんを見上げたときにすーっと首筋を流れている汗と一緒に覚えている、そんな光景。が私が抱く、なんというか、大阪のイメージであった。

とにかく夜行バスに乗っているときから、うっとりした。細い光の線が合わさってばらばらに広がってゆくのを見ていた。等間隔で表れてくる光の丸が収束していく暗闇、そういうものに私はびっくりしていたし、それとは別に眼前から髪の毛や皮膚に向かって染み込んでくるオレンジ色の閃光の通り道、それに目が捕われてしまって、ああ、こういうものを表現したいから人はもがいたりするのかもしれない、こういう一瞬がだれとも共有できないからこそ、生きられるのかもしれないなんてことを考えながら、携帯電話のディスプレイの光がまぶしかった。

それで結局朝早くに大阪についた私は、初めての土地で、どうでもいい女にどうでもいい洗礼を受け、苛立って足が小刻みに震えたが、ファーストフード店で時間をつぶしてから通天閣へ向かうことにした。その日はやたらと、聴覚がぼんやりするというか、空気が生温いというか、どこか自然の産物とは思えない一定の音程が耳の中でずっと響いているような日だった。たかが数百円の景色がとてもじゃないが高過ぎて、どうあがいてもあれは新世界だった。体温のような太陽の光を展望台のガラス越しに浴びると、くぼんだ足の裏をそっと撫でながら、本気でビリケン様にお願いした。新しい世界が聞きたかった。BGMもかかってない小さな展望台から、地上へと降りるエレベーターの中が小宇宙みたいになって真っ昼間からちかちか光っている。みんなが気を失ったような目で天井を見上げた。「お前みたいに遅いエレベーターやな」と眉毛をそりすぎたセカンドバックを持った男が、眉山が上がりすぎた女の尻に向かって言った。女は笑みを浮かべたんだろうか。私は天井を見ながら、もう一生通天閣には上らない気がした。
それから通天閣の真下に立ってみると、ちょっと離れたところにスキンヘッドのじいさんが、大きな質感の酸素とか窒素とか水素とかを帯びながら立っていて、足下には虫かごが置いてある。そこに真っ白いネズミがいて、じいさんも白いナイロン素材のすべすべしたジャージを纏っていて、二人は圧倒的に、ニュー・家族だった。おもむろにじいさんが虫かごから真っ白なネズミを出して、移動し、ネズミを地面に放すと、あっちへもどれあっちへもどれと手であっちの方へ合図し、何度かあっちの方へ顎も動かした。ネズミは器用に、そして忙しなく虫かごへ戻って行った。
これがもしかして平和ということなのではないか、耳の中の音が、共鳴して層のように重なる。ある層とある層の間に、無重力が前衛を目的とする。じいさんとネズミの解像度が荒くなったら…これ以上実存はできないとなぜか想像して怖くなって、そそくさと新世界を去ったが、あのじいさんと白いネズミが内部に転回していった新世界は、私の体験をファンタジーにして、輪郭線を曖昧にした。