ポップではないものとしての悪意

「悪意の連鎖について考えれば考えるほど分からなくなるのは当たり前で、悪意っていうのはすぐに伝染する。だから、悪意は、誰かある一人のやつが、何も言わないで、何もしないで、何も考えないで、全部飲み込むっていう覚悟を持って静かに、受け止めなきゃ終わらないんだ」と言いながら、もうひとりの僕が足を組み替える。靴の裏にはたくさんのしあわせがついているんだ。見落としてしまったものたち、踏みにじってしまっている善意。寂しい顔や小さな声にも気づかないフリをして、どんどん僕は僕自身の悪意に苛まれる。頭の中がとっちらかる。悪意が皮膚を貫通して入ってくる。悪意によって身体が腐ってくる。ああ、かみさま、悪意を止めるにはどうしたらいいんですかと、首を仰いで電線の黒い影を見る。たまにバチバチっていう音が聞こえる。毎日毎日肩をすくめている僕自身が、もし悪意の固まりだったら、と思って真っ正面に視線を戻した。そんなはずはないんだけど、思っている傍から、人ごみに対して舌打ちしている自分が情けなくなる。行く手が少しだけ塞がれて、足のリズムがくずれる。たまに勢いよく身体がぶつかって、無防備な僕の上半身は回転する。だってあんな密度で人がいるんだから仕方ないのに。
複雑だと思い込んでいる悪意の根源に理性はない。それらを解読していけば、ただただシンプルなものに突き当たる。だからこそ人はそのシンプルさの強度をひどく恥ずかしいものだとして、欲や諦めと共に悪意を増長させる。もっとも、直感的な悪意は、純粋な悪意のままでいられるはずであり、純粋な悪意は多分にすぐに収まる。なぜなら誤差だからだ。しかし、純粋な悪意などというのは、私たちの身体を通した瞬間にあとかたもなくなって、悪意に変貌する。いろいろなものを纏ってしまった悪意は、「あとには引けない状態」に僕らを追い込んで、追いこんで、追い込む。悪意を正当化する。正当化された悪意は、自ずと正義という大義名分をも飲み込んで、僕たちに襲いかかってくる。
悪意ってそもそも、まず自分の不甲斐なさだけに直面したときに起こりやすいのだからやっかいなのだ。悪意は、自分と僕との間にある、苛立とコンプレックスなのかもしれない。だからこそ、悪意は悪意を呼び、暴力は止まらない。暴力を止めるにはどうしたらいいんだろう?僕は靴下を脱いだ。五本の指が縮こまってくっついている。おやゆびを動かすだけでも全身が痛い。僕は思った。悪意はただ、僕がなんとなく作り出しているもので、何かのきっかけで忘れてしまって、飛んでいった悪意が、忙しい僕らにまた、いろんな人の小さな悪意を伴って、巨大化し、周りが見えなくなって、暴力を生む。僕に、悪意を止められるだけの、精神力があるんだろうか。これからどんどん大人になれば、分かるんだろうか。

誰もの心から一瞬にして悪意を消すことができる錬金術の本を図書館に探しにいこうと思っているが、毎日眠い。