ブエノスアイレスをもう一度

二十歳前にブエノスアイレスを観たとき、私はどんなことを思ったんだろうか。思い出せない。映像とそこに映る行為の刺激が強過ぎて多分、放心状態だった。それでも一番覚えているのはトニー・レオンの白黒の顔で、その表情は「もう無理だ」っていう悲しい顔だった。愛情があったかいものだとしたらその表情には温度はない。急速に冷めていった温度は本能ですら止められない。そういうときの理性は強い。このままじゃダメだ。無性に不安になったが、何年も、ことあるごとにブエノスアイレスをもう一度…と思っては、機会を逃し続けた。
その数年の間、私に起こった変化は、ゆるやかではあったが、すこしはマシになった人格とまだまだ弱い身体と向き合うのも忘れて、気づいたらひどく疲れていた。そしてここ2年間の数々の沙汰ののち、もう一度ブエノスアイレスを観る時が来たのである。もしかしたら今この瞬間に観るのとはまったく意味合いが違うだろうという確信のもと、あの、レスリー・チャンの子犬のような甘えに満ちた目ん玉に映る、トニー・レオンの切なさにひどく同情してしまって、涙なしでは観られないかもしれない、もう本当に嫌になっちゃって、私だって泳ぎだなさくてはいけないと、ビデオ屋さんに探しにいったら、目の奥の鈍痛がひどくて全然見つけられなかった。両目が奥の方でつながってしまって、こんがらがっている。本当に疲れている。疲れているから、拒絶される。どんどん悲しくなる。

身体に得体の知れない毒素が広がっていく気がする。私どうにかなっちゃうのかな。疲れるとか疲れたとか疲れさせないでとか、東京に長く住んでる人はそうやって他人との距離を取るように、まあ、よく言うなあと軽蔑していたけど、皮肉にも自分がそんな風に言うようになってしまった。

心ない人たちの言葉によって、自分の気品がガラガラと音を立てて崩れてゆくのを尻目に、私自身がいつだって元気で、いつだって悲しまず、いつだって笑顔で、いつだって無理をしないと、何事もうまくいかなくなることに意識が荒んでくる。めんどくさいことはもうしたくない。どうしたら自分の意思を大切にして生きていけるんだろうねと雨の中話していたら、とりあえず、休んだら?と、あの子は言った。
「あなたのレベルを下げてまで人と一緒にいなくてもいいのよ。本質がネガティブな人は、ひどいことを言って、これが本当の自分だから受け入れてほしいって言うじゃない?そんなものにつき合って、あなた自身の徳を下げる必要はまったくない。はいはい、って流してればいいの。あなたはどうしたら自分が磨かれるのかということだけ考えていればいいの。心配で良かれと思って人を甘やかしていると、あなたにあとで甘やかした分だけ痛みが帰ってくるんだから。一人でゆっくり海を見て、一人でゆっくり歩いて、ひとりでゆっくりお茶をいれ、ひとりでゆっくりごはんを食べる。それでひとりでおしゃれして、ひとりで映画をみて、ひとりで雨の音に耳を傾けながら、体温がどんどん上がっていくのを感じて、ゆっくり、あったかくして寝る。
ひとりになってみればいいんじゃないかな。そうしたら、また人に会いたくなる。会いたくなったら会えばいい。無理することはない。ひとりになればいいの」

この子はいつからこんなことを言うようになったんだろう。私たちはちょっとずつ大人になろうとしていて、自分達に訪れている変化にびっくりした。そうやって私達は、世界に既にあるものたちと折り合いをつけて、それらを言語化し、自分を見失わないために、風をも真正面から受けて世界と対峙する。

それでも、そこからこぼれ落ちる、誰もが気づかないような感動にだって、敏感でいたいから、私たちは擦り切れるんだ。しょうがないね、ゆっくりいこう。